3.受け継がれる心と技
「大将」に学んだ10年
伝統的な蹴ろくろに、自家製の釉薬、そして登り窯。
今日まで続く河本さんの作陶スタイルには、
随所で、師匠である生田和孝氏の存在を感じます。
河本さんが陶芸をはじめたのは中学生のとき。
実は倉吉市は昔から陶芸が盛んな地域で、
河本さんの通った中学校には焼き物クラブがありました。
そこで陶芸に出逢い、顧問の先生の紹介により中学卒業後、生田氏の弟子になります。
▲河本さんの工房には、生田窯での修行時代に撮った写真が。上段左が河本さん。上段右から2人目が生田氏。生田窯には常に4人の弟子がいて、中にはオーストラリアから学びにきていた人も。
生田氏は、河本さんと同じ鳥取県出身。
民藝運動の中心人物である河井寛次郎氏に師事した後、兵庫県・丹波にて開窯。
丹波は、中世から続く日本を代表する焼き物の産地「日本六古窯」にも数えられる地域です。
手がけたのは、民藝の精神である用に即した健全な美しさ「用の美」が宿った器。
そして「生田ほど弟子を育てた者はいない」と称されるほど、
後の陶芸界を担う優れたつくり手を多数輩出。
その1人が河本さんなのです。
「15歳で弟子入りしたから、
生活態度から物の見方まで、何から何まで植えつけられました。
大将(生田氏)は、百貨店で展示会なんかがあると、
弟子をみんな連れて見せに行ってくれて。
いいもの、悪いもの、展示の仕方なども教えられました。
大将から学んだことは、今も大事にしています」。
生田氏を「大将」と呼びながら、誇らしげに語ります。
▲蓋物をつくるのが好きという河本さん。修行中に生田氏に連れられて行った大阪日本民芸館で、黒田辰秋(たつあき)氏の蓋物を見て以来ずっと、とのこと。黒田氏は蓋物を多くつくり、木工芸初の人間国宝にもなった漆芸家です。
「修行中には、つくってもつくっても上手くいかず、悩んだ時期もありました。
でも、大将は何も言わなくてもよくわかってくれた。
大将も勤めていた磁器の会社が倒産したり、
丹波でよそ者扱いされたりした苦労があったから、
気持ちを理解してくれていたんでしょう。
だから辛くても、一度も焼き物をやめたいと思ったことはなかった。
それは、15ではじめてから63歳になる今まで、ずっとそうです」。
▲河本さんの器に深い高台が多いのは、持ったときに指がすっと入りやすいように。手にしてみると見た目以上に軽く薄いのは、扱いやすいように。使い勝手を考えてつくられたかたちが、結果的に美しい佇まいを生み出しています。
10年間、生田氏のもとで学んだ後、
26歳で倉吉市に戻り窯を開きます。
独立してからも生田氏から受け継いだ面取りと、
糠や土灰といった釉薬を使った焼き物づくりに励みました。
▲10年前に、今の窯ではじめて焼いた器。餅のように膨らんだ所は、窯の温度が上がり過ぎて土が溶けてしまった結果。このときは半数が不良だった一方で、何事もなく焼き上がった残りの器は力強く、面白いものができたそう。
2008年に今の場所に工房を移し、新しい登り窯を開窯。
はじめは半分の器がダメになってしまうほどでしたが、
火入れのたびに窯との関係を築き、
ようやく“いい窯”に育ってきたところでした。
試練を乗り越え、さらに先へ
2016年10月21日、鳥取県中部地震が発生。
震源のすぐ近くだった倉吉市は、震度6弱の揺れに襲われました。
「体が無事だっただけ、よかった」と河本さんは気丈に笑いますが、
その被害は相当なものだったようです。
その日はちょうど本焼き前で、登り窯に器を詰める日。
ほとんどを詰め終わって「さあ、これから焼こう」と一息ついていたとき、
つまり河本さんが一番楽しいと言っていた、まさにそのときでした。
窯は全壊しなかったものも、ひびが入ったり、隙間が空いたり、煙突が崩れたり。
そして何より中に詰めていた器は、
並べていた棚ごと崩れ、すべて割れてしまいました。
「もし自分が窯詰めの作業をしているときだったら、
窯の中で一緒に潰されていた。
もし窯に火をつけた後だったら、大火事になっていた。
そう考えると、よかったんです。
物は、またつくればいいから」。
▲窯だけでなく工房にあった制作途中の器も、地震でことごとく割れてしまったそう。
「お客さんから、手紙や電話をいただいたりして、
もう一回前向きに頑張ろうと思えました」と、
そこから1年かけて窯を修復。
2017年10月、再び窯に火を入れることができました。
「地震までの8年間かけて築いてきた窯との関係があったから、
思いのほか、なかなか上手く焼き上がってくれて。
また一歩、進めた気がします」。
「福光焼」の産地を目指して
▲工房の入り口にかけられた、福光焼の看板。
窯元の名前といえば、「●●窯」のように“窯”がつくことが多いもの。
でも河本さんはあえて、有田焼や益子焼といった産地のように、
福光“焼”と名づけています。
それは、単に「福光地区で焼いた焼き物」であることを表現したかったから。
「今は私の窯だけの名前だけれど、
いつかは地域全体で『福光焼』として器をつくれたらという思いもある。
もちろん1代、2代じゃ難しいけどね」。
▲河本さんの隣で、よく似た穏やかな表情で微笑む息子の慶さん。
そう話す河本さんの隣には、次世代を担う息子・慶(けい)さんの姿が。
「継げと言ったわけじゃないけれど、知らぬ間にやっていた」と、
高校生の頃から陶芸をはじめ、めきめきと腕を上げています。
-
▲「面取り飯碗」は慶さん作。河本さんがつくる器以上に薄く、軽いことに驚きます。
-
▲福光焼の人気商品となっている「楕円型皿」も、慶さんが手がけたもの。持ち手が特徴的なカレーが似合う器です。
慶さんがつくるものは、慶さんがつくりたいもの。
基本的に河本さんは口を出さず、
つくりたいようにつくらせて失敗から学ばせるそう。
慶さんの側も、河本さんのスタイルを受け継ぎながら、
時代に合わせた使いやすい器づくりに、果敢に挑戦しています。
▲右が慶さん作の「面取り飯碗」、左が河本さん作の「面取り湯呑み」。同じ黒でも、「面取り飯碗」は慶さんが独自でつくったもの。河本さんの黒よりツヤがあります。
かつて中学校の焼き物クラブをきっかけに、陶芸をはじめた河本さん。
そして今、慶さんが焼き物クラブで指導をしています。
慶さんの教え子の中から、福光で焼き物をやりたいという子が育てば……。
河本さんは、そんな思いを滲ませます。
河本さんのルーツとなる河井寛次郎氏が残した名言の中に、
「過去が咲いている今、未来の蕾でいっぱいな今」という言葉があります。
河井寛次郎氏、生田和孝氏、そして河本さんが積み上げてきたものが、
この先慶さん、そしてその次の代でどのように花開くのか、楽しみでなりません。