大久保ハウス木工舎の工房を訪ねて | 工房訪問 | cotogoto コトゴト - ページ3
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3.ものをつくって暮らすということ

入口から見た工房内部

▲四方を遮るもののない立地のため、光も風もよく入る気持ちのいい工房。

大久保さんが松本市中山の今の場所に工房を構え
木工作家としてスタートしたのは、2012年。
32歳のときでした。
素材として良質な木が豊富な松本は、
古くから家具づくりで知られ、「用の美」で知られる民藝運動も盛んだった地。
全国から手仕事のつくり手が集まる
30年以上も続くクラフトイベントがあるなど、
現在でもものづくりの街として知られています。
そして、大久保さんはもともと松本出身。
木工作家になったのは、自然な流れのように思えますが、
実はここに至るまでの道のりも、なかなかユニークなものでした。

物書きか旅人になる、予定だった

大久保公太郎さん

松本出身の大久保さんですが、父親は転勤族。
小さい頃から日本各地を転々とし、松本に戻ったのは10歳のとき。
高校を卒業後富山の大学へ進学し、在学中は自転車で沖縄まで行ってみたり、
自転車やバイクで旅する日々を送ります。
「将来は物書きか旅人になる」と漠然と思いながらも、
周りの流れにのって就職。
仕事は順調でしたが、「先が見えた」と3年で退職。旅に出ます。
「自分を探していましたね。どこに行って何をすればいいんだろうと。
自分の向かう先というか、自分の中に生み出せるもの、
還元できるものが欲しいって思っていました」と大久保さん。

千年の歴史ある街で職人に

海のあるところに住みたいと西表島に行っていたときに、
その後奥様となる修子(しゅうこ)さんに出会います。
そして、美術大学に通っていた修子さんを訪ねて京都へ。
千年規模の歴史を持つスケール感に魅了され、そのまま京都に住むことに。
「京都には、歴史のままの場所が今でもあって、昔と今が繋がっているんです。
『なんでこうなったのか』という背景が残っているから、今が納得できる。
京都って面白い、もうちょっと暮らしたいって思ったんです」。
暮らすためには働かなくてはいけない。
「京都=職人」という発想から、ハローワークで紹介されたのが
嵐山にあった建具屋でした。
そこで古い建具の修繕をやったことが、日本の打刃物、
そして道具や木工の歴史へと目を向けるきっかけとなったのは前述の通り。

建具屋での修行が5年で終わるその1年前、大久保さんは30歳を迎えます。
「30歳になったとき、けっこう衝撃で。
なんとなく30歳からが大人だと思い込んでいた節があって、
『どうしよう』ってなったとき、自分が持っているのは木工しかない、
これで生きていかないといけないって思ったんです」。
修業を終えたときには、修子さんとの結婚も決め、
木工を生業に生きていこうという気持ちが固まっていました。
とはいえ、木工作家は雇われていた職人とは別世界。
個人作家として木工を生業にするとはどういう生き方なのか、
それを探ろうと、1年間木曽にある上松技術専門学校へ通うことにしました。

週末を利用して個人の木工作家を訪ね歩いては、
その暮らしぶりや生き方を見せてもらう日々。
そうこうするうちに卒業を迎えます。

ものづくりは1人では完成しない

大久保ハウス木工舎の名前が焼印された木箱

▲暮らしのものをつくろうという想いが、「ハウス」という言葉に現れています。

2012年、松本に戻り、縁あって今の地に工房を構え独立。
暮らしのものをつくっていこうと屋号を「大久保ハウス木工舎」に。
最初は「大久保ハウス」だったところが、
ハウスメーカーと間違われることが多かったため、後に「木工舎」をつけ加えたとか。
暮らしが詰め込まれた家=ハウスという名の通り、
木のものなら大小問わず手がけていきました。
求められるものをつくり続けているうちに、「木のヘラ」など食の道具中心に。
2014年には料理研究家・金子健一さんと出会い、
使い手の存在をより意識し、誂えとしての暮らしの道具を追求していくスタイルへ。

そんな大久保さんのものづくりを支えているのが、
素材を供給する木材屋と、道具づくりに欠かせない鍛冶屋と砥石屋です。

工房のいたるところに置かれた木材

▲高台の斜面に立つ工房。いたるところに木材が置かれています。

材木は、長野市の材木屋さんから仕入れています。
希望を出して見繕ってもらってというのを繰り返しつつ、
大久保さんが出品するイベントなども見て、つくっているものや好みから
木材を調達してきてくれるのだとか。

そして、職人の世界では「いい道具を持つのも職人の甲斐性」といわれる道具。
既成の道具に押され、現在残っている鍛冶屋はほんの少し。
その中で、大久保さんの細かなオーダーにも応えてくれる
新潟の三条と兵庫の三木の鍛冶屋に刃をお願いしています。
「僕がお願いしているのは、鍛冶屋にとったらかなりイレギュラーなもの。
図面を書いて、0.5mm単位で指定すると、
『細かすぎるわ!』って怒られることもありますよ」と笑う大久保さん。

でも、そんな刃をつくることは鍛冶屋にとっても新しい挑戦になるのです。
「僕自身が使い手の声によってつくるかたちを変えるように、
鍛冶屋にも同じことを要求するんです。
僕が鍛冶屋にとって一番の使い手であれたら、
もっといいものが生まれるよなって」。
使い手からのバトンを、自分のものづくりを支える人々にも渡していく。
そうやって一緒に進んでいけたら、と大久保さんは言います。

そして、もう1人。
奥様である修子さんも、大久保さんにとって大きな存在。
そもそも京都で職人になるきっかけも修子さんなら、
作家という存在を知ったのも美術大学で染色を専攻していた修子さんから。
木工を生業として松本で独立しようと決意させたのも、修子さんとの結婚。
そして今、修子さんは大久保さんの工房の隣で
自分の目で選んだ作家たちを紹介する「Gallery sen(ギャラリー セン)」を営んでいます。
「僕の作品も置いてくれているんですが、全部じゃないんです。
彼女の独断と偏見でいいと思ったものだけ」と笑いながらも、
同じ場所で、そしてそれぞれのスタイルで、一緒に歩んでいることがとてもうれしそう。

木を削ることに没頭できる幸せ

工房の中の様子 蚊取り線香

窓が開け放たれた工房にいると、絶えず鳥の美しいさえずりが聞こえてきます。
ぶーんと飛んでくるのは日本ミツバチ。
松本市街地から車で30分の高台にある工房は、どこか浮世離れしていて
静寂な時間が流れていました。
「下の世界は異界ですよ。ここは歩いてコンビニにもいけない環境。
何もないから、楽しみといえば食べること。『今日の夕飯は何だろう?』とか考えますもん」。
寝て、起きて、削って、食べて、寝る。シンプルな生活だから木に没頭できる。
暮らしながらつくるということが、今ようやくできてきているとか。

北アルプスを一望できるロケーション

▲北アルプスを背景に。この悠々とした環境が、大久保さんのものづくりには欠かせないのです。

毎日削ることばかりを考えていられるのはありがたい、と大久保さんは言います。
「ものをつくるのには、あまりにも時間がかかります。
匙なんか奥が深すぎて、生きているうちに完成形に辿りつけるのかどうか……。
時代を追いかけてもものはできない。
だったらつくることに没頭する時間を確保した方がいいのかなって思っています」。

つくるかたちも、つくる方法も道具も、現在進行形の大久保さんの木工。
「人は変わっていくものだから、
それとともに成していけばいいかな」と言います。
今日の使い勝手のよさが、10年後の心地よさとは限りません。
大久保さんの話を聞いていると、
ものを選ぶときや使うとき、
もっと自分の声に素直に、自分を信じていいんだなと思わされます。
そして、それをもっと口に出してもいい、
きっと大久保さんがかたちにしてくれるから。
これから大久保さんがつくるものたちが
どのように移り変わっていくのか、楽しみでなりません。

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