2017年11月公開
富山県南西部の山あいに位置する八尾町(やつおまち)は、
毎年9月に開催されるお祭「おわら風の盆」の舞台として知られていますが、
江戸時代には、富山の売薬業とともに和紙づくりが一大産業になった場所。
ところが現在では、和紙づくりに携わるのは、たった一軒のみに。
手すきにこだわり、色とりどりの美しい型染めを施した和紙をつくる
「桂樹舎(けいじゅしゃ)」です。
八尾町の伝統工芸「八尾和紙」の流れを汲みながらも、
布ではなく和紙に型染めをするという
新しい和紙の姿を切り開いてきた桂樹舎。
山の木々に囲まれ、たっぷりと水をたたえる井田川沿いにある自然豊かな工房で、
桂樹舎ならではの「型染め和紙」ができるまでを見せていただきました。
1.唯一無二、“桂樹舎の和紙”
心が浮き立つ和紙小物
▲桂樹舎では、色とりどりの型染め和紙を使い、ブックカバーや名刺入れ、印鑑ケースなど、暮らしに寄り添う和紙小物をつくっています。
繊細で濡れるとやぶけやすい。
そんな和紙のイメージを一新するのが、
富山県富山市八尾町の和紙のつくり手「桂樹舎」の和紙。
桂樹舎では、出来上がった和紙を、ブックカバーや名刺入れ、印鑑ケースなど
暮らしの中で身近に使うことができる和紙製品に仕立てています。
軽いけれど、厚手で丈夫。
紙とはいえ、長年使うことができるほど耐久性があり、
その姿は従来の和紙とは異なります。
使うほどにやわらかくなり、薄手の革のような手ざわりまで楽しめるのです。
さらに、赤、青、黄、緑など、パッと心が晴れるような鮮やかな色合いと、
素朴でおおらかな民藝調の柄が印象的。
持っていると、それだけで心が浮き立つような小物たちです。
この色や柄もまた、桂樹舎ならでは。
▲「ブックカバー ひし形紋 青」。
直線が組み合わされた幾何学的な模様が、青と白で表されていて、とても爽やかな印象です。
▲「名刺入れ 実からくさ 黄」。開閉を繰り返しても、やぶけたり色がはげたりせず使い続けることができるのは、
厚手で丈夫な和紙を使い、繊維にしっかり色を染め付けているため。
桂樹舎では、表面に柄をプリントする「印刷」ではなく、
型を使って染色する「型染め」の手法で柄をつけています。
紙の繊維にしっかりと色が入るため、
ブックカバーや名刺入れなど折り曲げて使うものでも、
折り山の色がはげてしまうこともありません。
耐色性があるため、クッションカバーまでつくられているほど。
▲四角い座布団「角座」と「クッションカバー」も和紙製。
使うことでくたっと和紙がやわらかくなり、まるで革のような使い心地です。
ここでひとつ、素朴な疑問が沸いてきます。
型染めといえば、本来は紙ではなく布で行うもの。
型を使って色を入れたくないところに糊を置き、
着色したい部分を染めてから、水で糊を溶かして落とす染色の技法です。
顔料を乾かした後、糊を溶かすためには
一定の時間水に浸しっぱなしにしなくてはいけません。
いくら桂樹舎の和紙が厚手で丈夫とはいえ、紙は紙。
溶けたり、破けてしまうことはないのでしょうか。
柄や色の美しさだけではない、
桂樹舎の型染め和紙の魅力をもっと知りたくて
富山市八尾町の工房を訪れました。
八尾和紙と桂樹舎
▲川を挟んで向こう側が、桂樹舎のある「旧町」と呼ばれるエリア。
360度どこを見ても山並みが美しく、自然の豊かな地域です。
県土の70%近くを森林が占め、
立山山麓からの清冽な雪どけ水が伝わる富山県は、
国内でも有数の水質を誇る土地。
良質な水を必要とする紙すきの歴史も古く、
県内にはいくつか和紙づくりの盛んな産地が生まれました。
今では「越中和紙」として、伝統的工芸品に指定されています。
そのひとつが、桂樹舎のある八尾町で室町時代にはじまった「八尾和紙」。
農家の冬の仕事として営まれてきました。
富山はまた、薬草も豊富だったことから、江戸時代に富山藩が売薬業を推奨。
その薬を包む薬包紙や袋に八尾和紙が使われるようになると、
和紙は八尾町を支える一大産業になります。
和紙づくりとときを同じくして養蚕も盛んになった八尾町は、
豊かな財力のある町として文化も発展していきます。
▲旧町は、山の傾斜に石を積み上げてつくられた坂の町。石畳と白壁、格子戸や窓が昔の風情を残しています。
桂樹舎は、八尾町の中でも昔の風情が残る「旧町」と呼ばれる一角にあります。
出迎えてくれたのは、破顔一笑といった笑顔が印象的な
社長の吉田泰樹(やすき)さん。
和紙や桂樹舎について説明をしながら、工房の中をあっちへ行ったりこっちへ来たり、途中、アメリカから訪れた高校生たちの紙すき体験を指導したりと大忙しなのに、なんだかとても楽しそう。
話の端々に飛び出す冗談に、自分でも大笑いするその姿は、“数百年の歴史を持つ八尾和紙の担い手”という重々しい響きから想像していた人物像とは、どうやら違う雰囲気なのです。
▲桂樹舎の2代目社長である吉田泰樹さん。
現在、桂樹舎は八尾町で唯一の和紙製造元。
室町時代からはじまった八尾和紙は、
全盛期には500軒近くのつくり手がいたといいますが、
明治期に機械製紙による洋紙が伝わり、安価な紙が出回るようになると、
手すきの和紙は急速に下火になってしまいます。
そんな中でも和紙づくりを続けてきたのが……と思いきや、
桂樹舎の起こりは、八尾町の和紙全盛期ではなく、和紙が斜陽産業といわれてから。
昔から和紙を手がけてきたつくり手たちが次々と廃業していく中で、
時代に逆らうように和紙の手すきをはじめたというから驚きです。
▲桂樹舎の敷地の入り口に立つ「和紙」の文字看板。
吉田さんは、桂樹舎の2代目。
創設者は、吉田さんのお父様である吉田桂介さんです。
吉田さんの祖父が養蚕の仕事をしていた関係で、
桂介さんは東京で呉服の仕事に就いていました。
ところが体調を崩して帰郷。
ちょうどその頃、和紙振興策として県の製紙指導所ができ、
体調がよくなってきていた桂介さんはその講習生となります。
「親父は暇だったもんだから、
興味本位で冷やかし半分にそこに入ったわけ。
だけど、農家の人がすいた紙をいくつも見ていくうちに
だんだんとその美しさがわかってきたんでしょうね。
それから、学識者の人を県外から呼んで勉強したりするうちに
和紙の面白さにはまっていったんです」と吉田さん。
とはいえ、斜陽産業の和紙で食べていけるのか。
普通に考えると、あえてそれを仕事にしようとはなかなか思えないところです。
そこに、桂介さんの背中を大きく押す、
柳宗悦(やなぎ むねよし)氏との出会いがありました。
柳宗悦氏といえば、名もなき職人の手から生み出された日常の道具や、
生活の中にある“健全な美”を謳う
新しい価値観を提唱した「民藝運動」の創始者。
「あるとき柳宗悦先生が和紙のすばらしさについて書かれた文章を読んで、
いてもたってもいられなくなって、東京の先生宅まで会いに行ったらしいです。
そこで薫陶を受け、八尾の手すき和紙を残していかねばならない、
こんないいものを人に伝えねばいかんと
和紙を一生の仕事にしようと決めたと聞いています」。
八尾和紙から民藝の紙へ
桂介さんは戦後すぐの昭和21年、
手すき和紙メーカーとして「越中紙社」という会社を立ち上げ、
民藝運動と伴走するように、手すきによる色紙や工芸紙を手掛けていきます。
柳宗悦氏を通じて、民藝運動の士との交流も広がっていきました。
そのひとりに、後に人間国宝に認定される染色工芸家・
芹沢銈介(せりざわ けいすけ)氏もいたのです。
「戦後の布不足の中で、和紙で型染めができないかと
親父に話があったんです」と吉田さん。
八尾町でつくられてきた「八尾和紙」は、もともと字を書くことよりも、
「富山の薬売り」が使う鞄に利用されるなど、
加工する紙としてつくられていました。
とはいえ、やはり紙。水につければ、溶けたり破けたりしてしまいます。
どうしたら型染めに耐えうる和紙ができるのか。
▲和紙を染めた後、最後に糊を落とすために水に浸しているところ。
試行錯誤の過程までは知らないという吉田さんですが、
「今でもやっているのは、すいた和紙を乾かした後、
蒟蒻粉を溶かしてつくる蒟蒻糊を塗ることと、
水を和紙が吸い込み過ぎないように色止めという処理をすること。
洋紙に万年筆で字を書いても滲まないじゃないですか。
その仕組みを和紙にも取り入れているんです。
紙を染める顔料にも大豆エキスを加えています。
大豆はたんぱく質だから乾くと固まります。
それで型染めの色止めになるんです」。
いくつもの技を結集し、ときには洋紙の技法まで取り入れたその方法から、
試行錯誤の苦労が察せられます。
水につけても溶けない、破けない紙にたどり着いた桂介さんは、
芹沢氏への工房へ型染めに使う紙を納め、交流が続いていました。
そしてついに、桂樹舎が唯一無二の存在として今に至る大きな転換点を迎えます。
「芹沢先生が型染めでカレンダーをつくるようになって、
だんだんと注文が増えていき、芹沢工房だけでは手が回らないから
越中紙社でも手伝ってくれということに。
そこで型染めの技術を習得することになったんです」と吉田さん。
▲型染め和紙カレンダー。芹沢氏没後も桂樹舎が、当時の材料と技法で毎年復刻し続け、今に伝えています。
詳しくはこちら。
加工紙として知られる丈夫な八尾和紙の流れを汲みつつ、
独自に研究を重ね、水に強く丈夫な強製紙を開発。
さらに、和紙をすくだけでなく、その和紙に型染めを施す技術まで習得。
こうして、色とりどりで美しい桂樹舎だけの「型染め和紙」が誕生したのです。
昭和35年には、この型染め和紙を加工する部門として「桂樹舎」を設立し、
現在まで続く、心が浮き立つような和紙小物をつくるように。
平成15年には和紙をすく越中紙社と桂樹舎をまとめ、
現在のかたちになりました。